ナナシログ

ナナシロのナナシロによるナナシロのためのログ。

「ブラックボックス展」という現象について神に書くように命ぜられたので読んでほしい。

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ナナシロです。

 

ちょうど会期を終えたブラックボックス展」について、神からのお告げがあり、僕なりの視点で書かせていただこうと思います。

 

なお、最初に言っておきますが、僕は展示へ足を運んでいません。

最初から足を運ぶ気がありませんでした。

 

その理由についてもこの記事で書こうと思います。

 

ブラックボックス展とは?

art & science gallery lab AXIOMというギャラリーで2017年5月6日から6月17日の1ヶ月とちょっとの間、催されていたアートの企画展です。

 

主催はサザエBOTというTwitterアカウントの中の人である、「なかのひとよ」さん。

twitter.com

 

何一つ事前情報がない謎の展示だった「ブラックボックス展」。

 

鑑賞者は、会期中ブラックボックス展の内容について他言しないよう誓約させられていたようで、様々な憶測が飛び交い話題となりました。

 

結局、来場者が増えすぎて警察が来る自体になったため、会期中に突如としてバウンサー(門番)の黒人男性が現れ、鑑賞できる者とできない者を選り分け始めました。

 

1時間以上も並んで弾かれる人が続出し、「いったいどういう基準で選ばれるのだろう……」と選考基準についても話題になり、さらに人が並ぶ……といった動員数が増える好循環が起こっていました。

 

ブラックボックス展とは何だったのか?

ブラックボックス展」の内容についての情報は、外部に漏れないように徹底されていたため、行かないと分からないという状態でした。

 

ですが、鑑賞者へは「会期中のみ口外無用」とされていたため、会期が終了した瞬間、次々とネタ晴らしが始まりました。

 

そこから、

  • 展示会場は物が何もなく、ただの真っ暗な部屋だった
  • 会場は暗いゆえに怖がって泣く人や、思わず笑ってしまう人、バタバタと足踏みして周りの人を怖がらせる人、手をとって誘導してくれる人などがいた
  • 鑑賞者は、鑑賞後に「ブラックボックス展の嘘の情報を流しても良い」と促された

というものが、「ブラックボックス展」の全容だということが分かりました。

 

誰でも思いつくような手法で、多くの人を呼び込んだだけだったため、アート界隈の人からは「茶番だ!」という酷評が多かったように思います。

 

ですが、このように子供騙しともとれるやり方の「ブラックボックス展」に3万人もの人が来場した(らしい)ことは大変興味深く思います。

 

僕が鑑賞しなかった理由

僕は、自分が仕掛ける側の人間であることを自負しているので、僕以外の人間による企画に巻き込まれるのが好きではないという、そもそもな理由はあるのですが、それを差し引いたとしても、僕は「ブラックボックス展」には行かなかったと思います。

 

理由は、この展示がアーティストが仕掛けた企画展示ではなく、神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎないからです。

 

……パードゥン?となったことでしょう。

 

もう少し分かりやすく書きます。

 

主催「なかのひとよ」の存在

まず前提として、「ブラックボックス展」主催の「なかのひとよ」という存在は、特定の個人であることを否定しています。

 

それは「なかのひとよ」のインタビュー記事を読むとよく分かると思います。

 

通常であれば、作品や展示は個人あるいは集団に帰属するもの、とされる前提が、「ブラックボックス展」についてはそれが成り立たないのです。

 

要するに「なかのひとよ」という存在は、企画者やアーティストといった形而下のものではなく、形而上の存在(一般的な事物や現象のように感覚的に経験できないもの)なのです。

 

その在り方が僕には、のように感じました。

神に「なかのひとよ」という固有名詞を当てているだけ、という感じでしょうか。

 

「なかのひとよ」には人格が存在しないため、「ブラックボックス展」は意思のある企てではなくなります。

 

そのため、「恣意的に(論理的な必然性なしに)という言葉を添えました。

 

「神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎない」とした中の「神によって恣意的に引き起こされた」は以上のように理解していただければと思います。

 

モナド論的な電気信号の連続

17~18世紀ドイツのライプニッツという哲学者をご存じでしょうか?

 

「電気信号の連続に過ぎない」の部分を説明するのに、ライプニッツが提唱したモナド論」を用いると分かりやすいと考えたので、以下で説明させていただきます。

 

モナド論をざっくり理解するためには、まずライプニッツが生み出した「モナド」という概念について大まかに知る必要があります。

(ここの説明を厳密にやろうとすると、数学や動力学などが関わってくるため、本当に表面的にだけ触れます。)

 

モナドとは、この世界を構成する要素の最小単位としてライプニッツが定義した精神的な概念です。

精神的なものなので、実体はありません。

 

モナドは神によって創られたものであり、モナド一つ一つに決まった振る舞いや関係性がプログラムされている、とライプニッツは考えました。

 

なんだなんだ……どういうことか分からないぞ……という方は下記のYahoo!知恵袋でモナド論が易しく説明されているので参考にするとよいと思います。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

このYahoo!知恵袋でも例として挙げられていますが、たとえば「ライプニッツ」という存在(言葉)には、「ドイツ出身」「哲学者」「政治家」…などの意味が含まれています。

 

ライプニッツ」という概念と「ドイツ出身」などの属性は機械的に紐づけがなされ、「ライプニッツ」という言葉から「ドイツ出身」などの属性がまるでプログラムが動作するように導きだされています。

 

このようにプログラムされた意味や現象の集合によってあらゆる概念が成り立っているというわけです。

 

僕は今回の「ブラックボックス展」について、このモナド論のように、神である「なかのひとよ」によって創造された鑑賞者が、プログラムどおりに動いた現象、と考えました。

 

ブラックボックス展」に足を運び、列に並び、鑑賞をおこなった時点で、プログラムの一部と化し、世界そのものになってしまう。

 

……そうやってプログラムの一部に組みこまれ動作していく様を、僕は「電気信号の連続」と表現しました。

 

だから僕は鑑賞しなかった

僕はTwitterリツイートで「ブラックボックス展」の情報が流れてきた段階で、このイベントは神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続かもしれない、と考えました。

 

それに対する僕の答えは、プログラムに組み込まれないということでした。

つまり、僕は会場へ足を運びませんでした。

 

会場に足を運び鑑賞した人の中には「痴漢された」という方もいらっしゃったようです。

(記事がちょっと話題になっていましたね。)

trhbi.hatenablog.com

 

が、これも神の恣意的なプログラムの一部に過ぎないと思います。

(痴漢という行為の倫理性については論点がずれるのでこの記事内では触れないことにします。)

 

展示終了後も概念は生き続ける

僕が「ブラックボックス展」を鑑賞しなかった理由についてはこれまで述べたとおりですが、展示が終了したことですべてが終わるわけではありません。

 

なぜなら「ブラックボックス展」は企画者による展示ではなく、神によるプログラムだからです。

 

展示が終了していようと、展示を鑑賞していなかろうと、ブラックボックス展」という概念に触れてしまった時点で、プログラムの一部と化すのです。

 

すなわち、鑑賞していないとはいえ、今こうして僕が「ブラックボックス展」について執筆をしているということは、僕もまたブラックボックス展を形成する一属性なのです。

 

僕は「ブラックボックス展」の一部にならないために展示会場に赴かなかったわけですが、こうして「ブラックボックス展」について言及したために神の創ったプログラムとして実行されてしまいました。

 

実はこのことに記事を書き始めてから気付いたため、僕としては迂闊でしたが、きっと「予定調和」ライプニッツの言う「予定調和」とは厳密には違いますが。)なのだろうと思います。

 

なお、ここでお気付きの方がいらっしゃると思いますが、この記事のタイトルはまさにこのことを自明しているわけです。

 

ブラックボックス展」はどう楽しめば良かったのか

概念を認識した段階で「ブラックボックス展」の一部になってしまうとは言いましたが、「認識する」のと「鑑賞する」のの間には隔たりがあるように感じます。

 

形而上で論じられるモナド論的にはその間に違いはないのでしょうが、鑑賞するorしないという行為は形而下では違いがあると言えると思います。

 

 

では、「ブラックボックス展」という概念を知ってしまった今、展示という形で示されたこの概念を楽しむ方法はあるのでしょうか。

 

それについて面白い楽しみ方をしている友人がいたので紹介します。

 

 

僕はこの一連のツイートを見たときに、思わず膝を打ちました。

 

鑑賞するとなるとどうしても、現地に物理的に存在することが前提になりがちですが、なでこちゃんは「想像する」という思考のみでの鑑賞の可能性を示してくれました。

 

これにより、実際に現地で鑑賞するほど「なかのひとよ」の創造した世界に取り込まれることなく、むしろブラックボックス展」という概念を、個人の世界に取り込んで再構築するという、神を神で迎え撃つような楽しみ方ができます。

 

鑑賞という行為を物理世界から引き離す。

 

それこそ、アート界隈の人から「茶番だ!」と「ブラックボックス展」同様の批判をいただきそうな手法ですが、もしかすると「ブラックボックス展」だけでなく、これからのアート鑑賞に対する新たな次元からのアプローチへと繋がるのかもしれません。

 

 

ブラックボックス展」は様々な物議を醸し、今も神のプログラムが実行され続けていますが、今回はその神に導かれる形で記事にしたためさせていただきました。

 

あくまで「ナナシログ」という個人的なログとして。

では、またお会いしましょう。