ナナシログ

ナナシロのナナシロによるナナシロのためのログ。

「なかのひとよ」のほころび、そして「ブラックボックス展」の崩壊へ

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ナナシロです。

 

先日書いた、下記の記事が想像以上に多くの方に読まれ、それなりに反響があったため、再び「ブラックボックス展」について書きます。

 

nanashiro1988.hatenablog.com

 

前回と違い、より主催の「なかのひとよ」にフォーカスした内容になります。 

 

ですが、本題に入る前に少し寄り道させてください。

(本題に入るときは、ちゃんと「本題に入ります」って言います。笑)

 

いくつかの不可解なコメント

「歌ってみた」や「踊ってみた」くらいのノリで、「鑑賞の観点を変えてみた」のが前回書いた記事でしたが、こんな個人的な気付きを書いただけの記事にあれほどのコメントが来たのは驚きでした。

 

もちろん、これだけ読まれたのは「ブラックボックス展」の主催者である「なかのひとよ」が自身の運用するTwitterアカウント「サザエBOT」でリツイートしたことが大きいのは明確です。

 

その時点では「わーい、たくさん読まれているぞー」という程度だったのですが、だんだんと不可解なコメントが来るようになりました。

 

そのうちの一つがこちら。

 

 さらに、

 と言及されていました。

 

僕は基本的に強い言葉遣いで圧力をかけてくる方は無視するスタンスなのですが、ここで一つ気になったのが「サザエbot信者」「サザエ信者」という表現でした。

 

サザエBOTについて知ったのはこの記事を執筆する直前で、

「ずいぶんとフォロワーの多いTwitterアカウントだなぁ」

程度にしか思っていませんでした。

 

しかし、このコメントを皮切りにいくつか似たようなコメントが来たため、そこで初めて、

 

どうやら「サザエBOT」というアカウントに否定的なイメージを持っている方が多いらしい

 

ということを知りました。

 

(すみません、これ本当に知らなかったので弁解させてください…。笑)

 

「サザエBOT」はなぜ評判が悪いのか

「サザエBOT」がどういう経緯で悪評を集めたのか調べてみたところ、過去に以下のような出来事があったようです。

togetter.com

blog.esuteru.com

 

これらのまとめや記事で指摘されている内容の真偽については深入りするときりがないため、今回はこれらが事実だと仮定して話を進めます。

 

 

まとめると、

  • 他のアカウントのツイ―トをパクる
  • パクった元のTwitterアカウントをブロックする
  • フォロワーを水増ししている可能性あり
  • 上記のことをする胡散臭いbotが「サザエBOT

ということのようです。

 

人間は「確証バイアス」がかかる

余談ではありますが。

 

「確証バイアス」とは、

  • 自分の信じる仮説を支持する情報ばかりを集めて「やっぱりそうじゃないか!」と主張する
  • ある仮説を信じるあまり、そこまで強い関連性がない情報を自分にとって都合の良い解釈で受けとる

といった、認知の偏りのことをいいます。

 

先ほどツイートを引用させていただいたはきだめさんは、まさにこの「確証バイアス」がかかっている状態のようで、僕の記事を読んで、

「これは『なかのひとよ』を礼賛する記事である!」

と断定しておりました。

 

僕はそれを見て、「書いてへんがな…、というか知らんがな…、そんなアホな…」と思いましたが、改めて自分の記事を読んだとき、一点、僕の書き方が悪かったと感じる部分がありました。

 

それは、神を記号として使用したという点です。

 

 

この方も言葉遣いが大概ですが、確かにと首肯せざるをえない指摘でした。

 

読み手がどう受け取るか、という視点が少し足りなかったように思います。

今後の記事を書くときの参考にさせていただきます。

 

 

以上、余談ではありましたが、これらの指摘を受けて、より「なかのひとよ」の存在と「ブラックボックス展」について追うきっかけとなりました。

 

ご指摘くださった方々、ありがとうございます。

 

なかのひとよ」の違和感

さて。

ここまで、サザエBOTについてよく知らなかったという言い訳、僕の書き方のつたなさの謝罪、と寄り道してきましたが、ここからが本題です。

 

僕は前回の記事で、「ブラックボックス展」のことを

なかのひとよによって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎない

と、書きました。

 

僕がこう表現したのは、なかのひとよ」が神的な振るまいをすることが前提だったのですが、どうやら実態はそれとはかけ離れていたようです。

 

最初に「なかのひとよ」の違和感に気付いたきっかけは、以下の一連のやりとりからでした。

 

 

要するに、

 

神であるはずの「なかのひとよ」が、神によって生み出された「未来”人”」と自称することは、自身が神ではないことの証明になっていないか?

 

ということです。

 

そして、ここに畳みかけるように、さらに別の方から極めて的確なコメントをいただきました。

 

 

この指摘に対して僕は思わず膝を打ちました。(前回の記事に続き2回目)

 

ほころびはやがて大きく

実は、「なかのひとよ」は、「サザエBOT」で僕のブログ記事を2回リツイートしています。

 

始め、それは単に「ブラックボックス展」というキーワードを拾ってリツイートをしているだけだと思っていました。

 

が、実際にサザエBOTのタイムラインを見てみたところ、

なかのひとよ」の意図したとおりに動いている人間のつぶやきのみリツイート

していることが分かりました。

 

これは到底「恣意的」とは言えない行為です。

意思を持つということはすなわち神性の放棄です。

 

違和感は明らかなほころびとなり、なかのひとよ」という着ぐるみが露わになった瞬間でした。

 

そして「ブラックボックス展」の崩壊へ

前回の記事で僕が提案した「ブラックボックス展」の楽しみ方は、「なかのひとよ」自身の人的な振るまいによって、自ら瓦解していったのです。

 

個人的には、「なかのひとよ」の中の人たち(タカムラさんの言い方を借りるならば)は、ずいぶん脇が甘かったなぁと思いました。

 

と、同時に、

神の創造した人間が、神として振るまうことは不可能なことである

と確信しました。

 

 

 

ブラックボックス展」および、「なかのひとよ」については触れるのはこの記事で終わりにするつもりですが、最後にちょっと僕の妄想について書こうと思います。

 

(なお、「ブラックボックス展」は現在、痴漢ほう助問題で大炎上していますが、そのことや、サザエBOTの倫理観等とは切り離して読んでいただければ幸いです。)

(それでも的外れなコメントが来る可能性があるので、せめて痴漢ほう助問題における僕の考え方は書いておきますが、一言で言うならリスクヘッジができないならイベントの主催を務めるのは筋違いですし、それでも想定外のことが起こったときは誠実さが伝わるように対応すべきです。たとえ素顔を見せてでも」です。)

 

 

僕は「なかのひとよ」による、「神として振るまう」という試みにとても面白さを感じました。

それは紛れもない事実です。

 

企画そのものはだれにでも思いつくような子供騙し(前回の記事でも書きました)だと思いますが、それを大衆相手に躊躇せずやったことは、浦沢直樹さんの漫画「20世紀少年」に出てくる”ともだち”を見ているようで、恐ろしく不気味で、それでいてなぜかワクワクさせられるものだと感じました。

 

ですが、「20世紀少年」でもそうだったように、一度ほころぶと崩壊するまで止まりません。

なかのひとよ」についてもすでに限界が来ていると感じるので、これまでのスタンスを捨てても良いのかな、と思います。サザエBOTなどのTwitterの運用もやめて。

そして、顔を出して一私人として振るまえばいいと思います。

 

その上で、ここからは僕の妄想ですが、今度は本当に人間ではない存在を「なかのひとよ」の模倣犯として仕立てあげるというのはどうでしょう。

 

たとえばAIを利用すれば、人間よりもほころびが出ないように神を演じさせることはできると思います。

 

そういうことを考えていると、なんだかワクワクしてきます。

 

と、あまり興奮していると、「不謹慎だ」「タイミングが悪すぎるぞ」というコメントをいただきそうなので(笑)、この辺りで筆をおこうと思います。

 

お読みいただきありがとうございました。

 

では、また。

「ブラックボックス展」という現象について神に書くように命ぜられたので読んでほしい。

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ナナシロです。

 

ちょうど会期を終えたブラックボックス展」について、神からのお告げがあり、僕なりの視点で書かせていただこうと思います。

 

なお、最初に言っておきますが、僕は展示へ足を運んでいません。

最初から足を運ぶ気がありませんでした。

 

その理由についてもこの記事で書こうと思います。

 

ブラックボックス展とは?

art & science gallery lab AXIOMというギャラリーで2017年5月6日から6月17日の1ヶ月とちょっとの間、催されていたアートの企画展です。

 

主催はサザエBOTというTwitterアカウントの中の人である、「なかのひとよ」さん。

twitter.com

 

何一つ事前情報がない謎の展示だった「ブラックボックス展」。

 

鑑賞者は、会期中ブラックボックス展の内容について他言しないよう誓約させられていたようで、様々な憶測が飛び交い話題となりました。

 

結局、来場者が増えすぎて警察が来る自体になったため、会期中に突如としてバウンサー(門番)の黒人男性が現れ、鑑賞できる者とできない者を選り分け始めました。

 

1時間以上も並んで弾かれる人が続出し、「いったいどういう基準で選ばれるのだろう……」と選考基準についても話題になり、さらに人が並ぶ……といった動員数が増える好循環が起こっていました。

 

ブラックボックス展とは何だったのか?

ブラックボックス展」の内容についての情報は、外部に漏れないように徹底されていたため、行かないと分からないという状態でした。

 

ですが、鑑賞者へは「会期中のみ口外無用」とされていたため、会期が終了した瞬間、次々とネタ晴らしが始まりました。

 

そこから、

  • 展示会場は物が何もなく、ただの真っ暗な部屋だった
  • 会場は暗いゆえに怖がって泣く人や、思わず笑ってしまう人、バタバタと足踏みして周りの人を怖がらせる人、手をとって誘導してくれる人などがいた
  • 鑑賞者は、鑑賞後に「ブラックボックス展の嘘の情報を流しても良い」と促された

というものが、「ブラックボックス展」の全容だということが分かりました。

 

誰でも思いつくような手法で、多くの人を呼び込んだだけだったため、アート界隈の人からは「茶番だ!」という酷評が多かったように思います。

 

ですが、このように子供騙しともとれるやり方の「ブラックボックス展」に3万人もの人が来場した(らしい)ことは大変興味深く思います。

 

僕が鑑賞しなかった理由

僕は、自分が仕掛ける側の人間であることを自負しているので、僕以外の人間による企画に巻き込まれるのが好きではないという、そもそもな理由はあるのですが、それを差し引いたとしても、僕は「ブラックボックス展」には行かなかったと思います。

 

理由は、この展示がアーティストが仕掛けた企画展示ではなく、神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎないからです。

 

……パードゥン?となったことでしょう。

 

もう少し分かりやすく書きます。

 

主催「なかのひとよ」の存在

まず前提として、「ブラックボックス展」主催の「なかのひとよ」という存在は、特定の個人であることを否定しています。

 

それは「なかのひとよ」のインタビュー記事を読むとよく分かると思います。

 

通常であれば、作品や展示は個人あるいは集団に帰属するもの、とされる前提が、「ブラックボックス展」についてはそれが成り立たないのです。

 

要するに「なかのひとよ」という存在は、企画者やアーティストといった形而下のものではなく、形而上の存在(一般的な事物や現象のように感覚的に経験できないもの)なのです。

 

その在り方が僕には、のように感じました。

神に「なかのひとよ」という固有名詞を当てているだけ、という感じでしょうか。

 

「なかのひとよ」には人格が存在しないため、「ブラックボックス展」は意思のある企てではなくなります。

 

そのため、「恣意的に(論理的な必然性なしに)という言葉を添えました。

 

「神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続に過ぎない」とした中の「神によって恣意的に引き起こされた」は以上のように理解していただければと思います。

 

モナド論的な電気信号の連続

17~18世紀ドイツのライプニッツという哲学者をご存じでしょうか?

 

「電気信号の連続に過ぎない」の部分を説明するのに、ライプニッツが提唱したモナド論」を用いると分かりやすいと考えたので、以下で説明させていただきます。

 

モナド論をざっくり理解するためには、まずライプニッツが生み出した「モナド」という概念について大まかに知る必要があります。

(ここの説明を厳密にやろうとすると、数学や動力学などが関わってくるため、本当に表面的にだけ触れます。)

 

モナドとは、この世界を構成する要素の最小単位としてライプニッツが定義した精神的な概念です。

精神的なものなので、実体はありません。

 

モナドは神によって創られたものであり、モナド一つ一つに決まった振る舞いや関係性がプログラムされている、とライプニッツは考えました。

 

なんだなんだ……どういうことか分からないぞ……という方は下記のYahoo!知恵袋でモナド論が易しく説明されているので参考にするとよいと思います。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

このYahoo!知恵袋でも例として挙げられていますが、たとえば「ライプニッツ」という存在(言葉)には、「ドイツ出身」「哲学者」「政治家」…などの意味が含まれています。

 

ライプニッツ」という概念と「ドイツ出身」などの属性は機械的に紐づけがなされ、「ライプニッツ」という言葉から「ドイツ出身」などの属性がまるでプログラムが動作するように導きだされています。

 

このようにプログラムされた意味や現象の集合によってあらゆる概念が成り立っているというわけです。

 

僕は今回の「ブラックボックス展」について、このモナド論のように、神である「なかのひとよ」によって創造された鑑賞者が、プログラムどおりに動いた現象、と考えました。

 

ブラックボックス展」に足を運び、列に並び、鑑賞をおこなった時点で、プログラムの一部と化し、世界そのものになってしまう。

 

……そうやってプログラムの一部に組みこまれ動作していく様を、僕は「電気信号の連続」と表現しました。

 

だから僕は鑑賞しなかった

僕はTwitterリツイートで「ブラックボックス展」の情報が流れてきた段階で、このイベントは神によって恣意的に引き起こされた電気信号の連続かもしれない、と考えました。

 

それに対する僕の答えは、プログラムに組み込まれないということでした。

つまり、僕は会場へ足を運びませんでした。

 

会場に足を運び鑑賞した人の中には「痴漢された」という方もいらっしゃったようです。

(記事がちょっと話題になっていましたね。)

trhbi.hatenablog.com

 

が、これも神の恣意的なプログラムの一部に過ぎないと思います。

(痴漢という行為の倫理性については論点がずれるのでこの記事内では触れないことにします。)

 

展示終了後も概念は生き続ける

僕が「ブラックボックス展」を鑑賞しなかった理由についてはこれまで述べたとおりですが、展示が終了したことですべてが終わるわけではありません。

 

なぜなら「ブラックボックス展」は企画者による展示ではなく、神によるプログラムだからです。

 

展示が終了していようと、展示を鑑賞していなかろうと、ブラックボックス展」という概念に触れてしまった時点で、プログラムの一部と化すのです。

 

すなわち、鑑賞していないとはいえ、今こうして僕が「ブラックボックス展」について執筆をしているということは、僕もまたブラックボックス展を形成する一属性なのです。

 

僕は「ブラックボックス展」の一部にならないために展示会場に赴かなかったわけですが、こうして「ブラックボックス展」について言及したために神の創ったプログラムとして実行されてしまいました。

 

実はこのことに記事を書き始めてから気付いたため、僕としては迂闊でしたが、きっと「予定調和」ライプニッツの言う「予定調和」とは厳密には違いますが。)なのだろうと思います。

 

なお、ここでお気付きの方がいらっしゃると思いますが、この記事のタイトルはまさにこのことを自明しているわけです。

 

ブラックボックス展」はどう楽しめば良かったのか

概念を認識した段階で「ブラックボックス展」の一部になってしまうとは言いましたが、「認識する」のと「鑑賞する」のの間には隔たりがあるように感じます。

 

形而上で論じられるモナド論的にはその間に違いはないのでしょうが、鑑賞するorしないという行為は形而下では違いがあると言えると思います。

 

 

では、「ブラックボックス展」という概念を知ってしまった今、展示という形で示されたこの概念を楽しむ方法はあるのでしょうか。

 

それについて面白い楽しみ方をしている友人がいたので紹介します。

 

 

僕はこの一連のツイートを見たときに、思わず膝を打ちました。

 

鑑賞するとなるとどうしても、現地に物理的に存在することが前提になりがちですが、なでこちゃんは「想像する」という思考のみでの鑑賞の可能性を示してくれました。

 

これにより、実際に現地で鑑賞するほど「なかのひとよ」の創造した世界に取り込まれることなく、むしろブラックボックス展」という概念を、個人の世界に取り込んで再構築するという、神を神で迎え撃つような楽しみ方ができます。

 

鑑賞という行為を物理世界から引き離す。

 

それこそ、アート界隈の人から「茶番だ!」と「ブラックボックス展」同様の批判をいただきそうな手法ですが、もしかすると「ブラックボックス展」だけでなく、これからのアート鑑賞に対する新たな次元からのアプローチへと繋がるのかもしれません。

 

 

ブラックボックス展」は様々な物議を醸し、今も神のプログラムが実行され続けていますが、今回はその神に導かれる形で記事にしたためさせていただきました。

 

あくまで「ナナシログ」という個人的なログとして。

では、またお会いしましょう。

僕がLINEスタンプを使わない理由

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ナナシロです。

 

突然ですが、僕はLINEスタンプを使ったことがありません。

それどころか、ガラケー時代から絵文字も使ったことがありません。

 

TwitterやLINEでは、主述関係を明確にし、句読点まできちんとつけます。

まれに、文末に「~。笑」と打つことがありますが、これは誰かへの個人的な返信の中で、自身の生来の明るさを「笑」という一語に託して見せることで、「返信しているのは、あなたが知っているナナシロですよ」ということを伝えるために、最低限で使用しているだけです。

 

なぜ使わないのか

 一言で言うならば、自分の感覚や感情を言葉以外のもので代用して表現することを嫌っているからです。

 

たとえば、恋人とデートをしたとき。

彼女の一挙手一投足がかわいくてまぶしくて、並んで歩けば光が差し、笑い合えば花が咲くような一日を堪能し、その帰りの道中で、

 

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と、LINEスタンプを送ったらどうでしょうか。

 

スタンプをタップした瞬間、複雑で多様な僕の感情は、すべてこのスタンプで象徴されるイメージで代替されます。

いわば、「僕→スタンプ→恋人」という伝言ゲームをしていることになります。

 

僕は、このLINEスタンプという輩が、僕のそのときその瞬間に伝えたいことを過不足なく伝えてくれると思えないのです。

 

無能な介在者の所為で、自分のきわめて繊細な感情のニュアンスが誤って伝わってしまうほど不幸なことはないです。

 

それゆえに、僕はLINEスタンプを使いません。

そしてそのスタンスは、LINEというサービスがなくなるまできっと変わらないでしょう。

 

なぜLINEスタンプが生まれたのかを紐解く 

日本における非対面コミュニケーションの歴史は、古くは木簡の時代までさかのぼります。

 

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画像引用元:| 木簡総合コミュニティサイト | 木簡ひろば | b 女官の横顔 |

 

木簡から手紙の時代までは書きつけるものが変わっただけでしたが、大きな変化が訪れたのはコンピュータが開発され、World Wide Webが構築され、インターネットが世界中と繋がったときでした。

(電話も、非対面コミュニケーションにおける革命的な発明だと思いますが、音声のやりとりによって対面しているとも言えるので、今回は割愛します。)

 

インターネットが張り巡らされて使われるようになったのがメールです。

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しかし、インターネットが発展してメールが使われるようになったことだけが、LINEスタンプ誕生に繋がっているわけではありません。

 

メールの登場と併せて重要になってくるのが、携帯電話の登場です。

 

日本においてはフィーチャーフォン、すなわち、ガラパゴス携帯(ガラケー)が、独自に発展しました。

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日本中の多くの人(とりわけ若い人)が、ガラケーを持つようになると、パソコンのときと比べて、より親密な人間と日常的な非対面コミュニケーションがおこなわれるようになりました。

 

そのときに誕生したのが「絵文字」です。

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非対面コミュニケーションが絵文字へ至った段階で、実質LINEスタンプ登場の土壌ができあがったと言えると思います。

 

LINEスタンプが登場してから、我々のオンラインでのコミュニケーションの取り方は大きく変化してきました。

最早、「変化」という言葉では足りず、「革命」とも言えるものだと思います。

 

今さらっと触れてきた非対面コミュニケーションの歴史の中で、もっとも大きなターニングポイントになっているのがインターネットの登場だと思います。

 

インターネットが登場した後、我々のライフスタイルはそれまでと比べものにならないほどスピーディーになり、一日に浴びる情報量がそれまでの何倍にも増大しました。

日々のコミュニケーションにスピード感が求められるようになると、文字を書いて渡す、文字を打って送る、では、効率が悪すぎると我々は感じ始めます。

 

その上、ガラケースマホによって個人的なコミュニケーションが当たり前になると、厳密に正しい文法で文章を送る必要がなくなります。

それこそ、「あーそれな」「なー」のような極めて抽象的な表現で充分伝わるようになります。

 

ガラケーの登場で絵文字が生まれ、メールの文章量が少なくなった後、スマホの登場でさらなるスピード感を求められるようになります。

 

結果、もはや必然的に、LINEスタンプは生まれたのです。

 

スタンプによって失われたものと、僕の決意表明

最初に書いたように、僕はきっとこれからもLINEスタンプを使うことはないでしょう。

 

もちろんスタンプの利便性は充分理解しているつもりです。

スタンプが生まれたことが歴史的に必然であることも先に述べたとおりです。

 

ですが、それでも僕にとっては、LINEスタンプによって失われてしまった言語表現のニュアンス、思いの輪郭、感情の温度などが、黒々とした底無しの穴のように見えて寒心に堪えません。

 

ユーザの半数はページが2秒以内に表示されないとブラウザを閉じてしまう今、誰もがキャッチーなタイトルを付け、読みやすくコンパクトな文章量で情報を発信します。

 

僕はそのメインストリームに対するカウンターでいることを、ここに表明します。

 

今日4ヶ月ぶりにブログを再開したのも、僕がブログで発信していく上での明確な軸が見つかったからです。

 

最後に。

読者に何かを押し付けるつもりはありませんが、僕のブログの読み方について一つだけ注文をつけるとすれば、僕のブログを読む時間をきちんととって読んでください、ということです。

 

注文とは言いましたが、どちらかというと路傍の注意書きのようなものだと思っていただいて結構です。

きっと片手間では読めないはずなので、そうしていただくと良いですよ、というレベルの話です。

 

こんな臆面もない申し出を受けてもなお「読みたい」と思っていただける方は、夜眠る前などに、蜂蜜入りのミルクをレンジでチンして、一人ベッドで横になりながら読む小説のように、読んでいただくと良いと思います。

 

それでは、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

はてなブログ始めました。

初めまして。ナナシロです。

 

ついにはてなブログ始めました。

 

ナナシロが思っていることを軽妙洒脱に書いていければと思っています。

 

どうぞよろしくお願いいたします。